【紹介】磯部敦:澤田四郎作のこと

 澤田四郎作をご存じだろうか。

 明治32年奈良県香芝五位堂の造り酒屋(現在の澤田酒造)に生まれる。郡山中学、六高、東京帝大医学部と進み、卒業後に大阪玉出で小児科を開業。そのかたわら民俗研究もおこない、柳田国男の助言もあって昭和9年に大阪民俗談話会(のちの近畿民俗学会)を創設。渋沢敬三折口信夫など澤田の有する人脈は、学会運営はもとより、宮本常一をはじめとする研究者の育成にも大きく影響した。昭和46年没。

 わたしが澤田をはじめて知ったのは、なら学研究会での近現代奈良県民俗調査史の報告を聞いたときだった。もっとも、そのときたまたま演習で谷崎潤一郎吉野葛』を読んでいたことから、わたしの記憶に残ったのは澤田ではなく花岡大学の郷土雑誌『吉野風土記』であった。たまたまその年から始まった非常勤先の図書館に同誌があったので借り出したところ「五倍子蔵書」印が捺されていて、調べてみたら澤田の号であった次第。そこには澤田文庫として澤田の旧蔵書籍資料類が収蔵されていたが、圧巻は数万枚におよぶ自筆の調査カード。その量と熱量の前に、わたしは書庫のなかで圧倒され、感動したのだった。すぐに研究会で澤田文庫のことを報告して会の共同研究テーマとし、ツテをたどって遺族とコンタクトを取って聞き取り調査をおこなったが、自筆原稿類を残して資料類は大学と遠野市立博物館に寄贈したのだという。ところで、澤田宅には遠近からの来客が多く、彼らをよく泊めていたこともあって同宅は「澤田ホテル」などと呼ばれていたが、来訪の際には芳名録に一筆署名することになっていた。訪問者の実際は澤田の私家版雑誌『五倍子雑筆』などからうかがえるのだが、ぜひとも現物を見たいと思っていたところ、昭和10年分一冊だけが遠野にあることが分かった。そこでさっそく電話で先方に連絡をとったところ、たまたま電話に出て応対してくれた学芸員さんが、なんと本学文学部の卒業生。たまたまも何度か続くと偶然とは思えなくなってくる。ともかく博物館を訪問し、念願の芳名録とご対面。柳田や渋沢、宮本はもちろん、雑賀貞次郎、大間知篤三、南木芳太郎、後藤捷一高谷重夫らの名前がならんでいたが、外見もまた興味深いものだった。麻生路郎自筆の題簽「奇縁壱年 二/路郎筆」を中央に貼付し、表紙に華やかな錦糸クロスを用いた装丁は、この芳名録が澤田にとって名簿以上の大事であったことを示している。澤田の交流は広範囲におよび、斎藤昌三や岡野他家夫、比嘉春潮、安江不空など挙げていけばきりがないのだけれど、こうした点と点とをつないでいた線(縁)こそが、澤田の私家版出版という営みであったように思う。一冊一冊、顔の見える範囲で書物雑誌を送るのは取次経由ほどの拡がりは見込めず、むしろ縁の固定化を志向するものであるだろう。では、縁の拡散と私家版流通の相関、研究組織運営との相関ありやなしや。澤田の営為は出版史的にも興味深いものがある。

 さて、如上の交流の一方で、澤田は関東大震災で住処を失い、大阪移住後は研究を育む「場」としての澤田家を根っこで支えていた妻を戦前に亡くす(佐藤健二柳田国男の歴史社会学』)。戦時には軍医として渡満し、戦後はシベリアに二年抑留。その間、日本で家計を支えていた長女を帰国後すぐに亡くすのであった。悲喜時々、澤田とともにあってまた支えていたのが遠近の人びとであり、民俗への興味情熱であった。そうした澤田の人となり、旧蔵資料、研究の特徴などについて、なら学研究会ではパンフレット『「知」の結節点で 澤田四郎作 人・郷土・学問』を作成し、ウェブサイト「なら学研究会」で公開した。興味の向きは、ダウンロードしてご覧いただきたい。

 最後に、澤田没後に編まれた追悼文集『澤田四郎作博士記念文集』所載、村田熙(鹿児島民俗学会)による「沢田四郎作先生を偲ぶ」の一節を紹介して終わろう。村田の指摘が医者を本業とする澤田みずから見さだめた分であるのかどうかはさておき、研究者として、学会運営者として、若手後進の育成者として、そして人と人とをつなぐ媒介者としての澤田をみごとに言いあらわしているように思う。

——失礼な言い方だが、私は先生から民俗学をどう学ぶかということをきいたことはない。しかし、民俗をいかに楽しむかということは機会ある度に教えてもらったようである。

 

#『奈良女子大学日本アジア言語文化学会報』61(2017.11、p.1)に掲載