【目次】亀井勝一郎『大和古寺風物誌』(天理時報社、1943/昭和18年初版)

f:id:isolab:20180508090429j:plain

画像は架蔵本より。表紙は上村占魚。発行の天理時報社とあわせて以下のリンクを参照。

挿入図版写真は大鍬四郎。大鍬は、「昭和21年の大和タイムス(現奈良新聞)創刊時から平成4年の退社まで45年間にわたり写真記者として報道写真を撮り続けてきた」人物で、平成4年(1992)12月15日没(『奈良県年鑑 1995』、奈良新聞社、1994、p.292)。

異同

現在入手可能な新潮文庫本には見られない「帰依と信仰」があるなど、本文異同箇所多。新薬師寺「薬師信仰について」を例にとってみれば(以下、ルビ省略)、

新潮文庫(2015年12月84刷改版、p.223)

ところで金堂の薬師如来は、前述のごとく弘仁時代のみ仏であるが、眼病平癒を記念するため、とくにその眼は大きく創られてある。まるで異人のようだ。半眼に宿る仏願の深さはない。眼病平癒された故に仏眼も大きくしなければならぬというのは、後代僧侶と仏師の理におちた解釈なのではなかろうか。霊験を人為的に誇張するのは、信心のゆかしさとは云えまい。

▼初版(p.229)

ところで金堂の薬師如来は、前述のごとく弘仁時代のみ仏であるが、眼病御平癒を記念するため、とくにその眼は大きく創られてある。まるで異人のやうだ。半眼に宿る仏願の深さは失はれてしまつた。どうしてこんなことになつたのだらうか。私は拝観するたびに疑問に思ふ。 聖武天皇ならびに光明皇后の御祈念あそばされたのは香薬師の典雅と鷹揚のみ姿であつたであらうに。眼病御平癒された故に仏眼も大きくしなければならぬといふのは、後代僧侶と仏師の浅はかな解釈なのではなからうか。霊験を人為的に誇張するのは、果して信心のゆかしさであらうか。

のごとくである。また、ほかに同項末尾 、現行では「かかる信仰あって、はじめて無双の仏体も造顕されたことは既に述べたとおりである」の一文で終わっているが(p.228)、初版本は以下のように続く。

かゝる御念願にあつて、はじめて無双の仏体も造顕されたことは既に述べたとほりである。わが皇統において、屡々病人貧窮者を救済され給うたのは、すべてこの大悲願の尊き伝統に他ならない。たとへば 孝謙天皇天平宝字元年十二月に発し給へる御詔勅のごとき、かゝる御真意をあますところなく示されてゐると云へやう。即ち続日本紀巻第二十によれば、

「十二月辛亥、勅すらく、普く疾病・及び貧乏の徒を救養はむが為に越前国の墾田一百町を以て永く山階寺の施薬院に施す。伏して願はくは、此の善業に因りて朕と衆生と与に三檀の福田を来際に窮め、十身の薬樹を塵区に蔭り、永く病苦の憂を減して共に延寿の楽を保ち、遂に真妙の深理に契ひて自ら円満の妙身を澄さむことを。」

 畏くも「朕と衆生と与に」と仰せられて久遠の寿に万民もろとも参入し給はんと念じられたのである。とくにこの御詔勅を引用し奉つたのは、畏れ多くも 昭憲皇太后が明治二十四年四月現在の慈恵学園に賜つた令旨の中に、

天平宝字の勅の如く病苦の憂ひを減じ共に延寿の楽を保たしむべき仁恵をなさん事を望む」

 と仰せられてゐるからであつて、いまに至るまで飛鳥白鳳天平歴代の御念願は連綿とつづいてゐるのである。(pp.234-235)

このあたり、他箇所とあわせて検証を要する。

亀井(亀井勝一郎 - Wikipedia)が昭和41年(1966)11月に亡くなっていることから、青空文庫では2017年に『大和古寺風物誌』が公開されている。入力・校正に使用したのは「2015(平成27)年12月5日84刷改版」本。

ただし、大鍬や入江泰吉らが撮影した写真図版があることから、国立国会図書館デジタルコレクションで館内限定公開となっている。

なお、「2015(平成27)年12月5日84刷改版」の新潮文庫本カバーは入江泰吉の写真、口絵に小島啓佑氏と小川光三氏の写真を挿む。小島氏は新潮社所属のカメラマン、小川氏は奈良の古仏・古美術写真の先駆者である小川晴暘の三男。

奥付

昭和十八年四月十五日印刷/昭和十八年四月二十日発行 五、〇〇〇部/大和古寺風物誌 (停)参円/著者 東京府下吉祥寺二七六一 亀井勝一郎(ルビ:カメヰカツイチラウ)/発行者 奈良県丹波市町三島 岡島善次/印刷製本所 奈良県丹波市町川原城 天理時報社 西奈①/発行所 奈良県丹波市町川原城 天理時報社 一一九五〇一/配給元 東京市神田区淡路町二ノ九 日本出版配給株式会社

第2版未見。第3版(昭和18年10月)では「昭和十八年十月二十日三版発行(一〇、〇〇〇部)」、定価も「定価 (停)二円九十銭/特別行為税拾銭/売値 参円」となっている。

f:id:isolab:20180508090434j:plain
目次

斑鳩
 飛鳥の祈り ・・・・・・ 2
 救世観音 ・・・・・・ 18
法隆寺
 初旅の想ひ出 ・・・・・・ 38
 金堂の春 ・・・・・・ 49
 宝蔵殿にて ・・・・・・ 55
 鳥仏師 ・・・・・・ 66
中宮寺
 思惟の像 ・・・・・・ 78
 天寿国曼荼羅 ・・・・・・ 91
法輪寺
 荒廃 ・・・・・・ 98
 虚空蔵菩薩 ・・・・・・ 107
薬師寺
 春 ・・・・・・ 114
 白鳳の光 ・・・・・・ 125
 塔について ・・・・・・ 146
唐招提寺
 秋 ・・・・・・ 152
 円柱と翼 ・・・・・・ 158
東大寺
 天平の花華 ・・・・・・ 166
 大仏殿にて ・・・・・・ 189
 不空羂索観音 ・・・・・・ 202
 講堂の址 ・・・・・・ 216
薬師寺
 高畑の道 ・・・・・・ 220
 薬師信仰について ・・・・・・ 226
 帰依と復活 ・・・・・・ 237
後記 ・・・・・・ 359

図版

図版目次
 夢殿(口絵)
 斑鳩の里 ・・・・・・ 28
 中宮寺の庭 ・・・・・・ 92
 法輪寺山門 ・・・・・・ 93
 薬師寺東塔(朝) ・・・・・・ 144
 薬師寺東塔(夕) ・・・・・・ 145
 唐招提寺金堂 ・・・・・・ 156
 講堂と鼓楼 ・・・・・・ 157
 金堂円柱 ・・・・・・ 164
 東大寺講堂の址 ・・・・・・ 204
 高畑の道 ・・・・・・ 220

  • 初版本「図版目次」頁末尾に「撮影 大鍬四郎」。第3版(昭和18年10月)では「撮影 大鍬四郎/装幀 上村占魚」。
  • 初版本における図版の向きはノドが上、小口が下になっているが、第3版ではその逆。
後記(pp.259-262)

後記
 はじめて大和の古寺を訪れたのは、昭和十二年の秋であつたが、それから毎年春と秋には年中行事のやうなつもりで出かけて行つては気のむくまゝに巡り歩いてゐた。その間、古寺や古仏に対する私の気持にも様様起伏はあつたが、すべて本文ならびに、巻末に附した「帰依と復活」といふ覚書の中にしるしておいたので、こゝにくりかへす必要はあるまい。ともあれこの六年間における私の巡礼記は本書にまとめられてあるわけだ。尤も私は古寺の一つ一つを詳細に語つたわけではない。当然語るべき幾多の古仏や伽藍を残した。といふのは、専門的な美術研究乃至案内書は他にいくらもあるし、私の念願したところはさういふ種類のものと違つてゐたからである。さゝやかながら発心の至情をもつて、また旅人ののびやかな感興をもつて、古寺に対したいといふのが私の願ひだつたのである。
 ところでかういふ本を刊行することが出来たのは、奈良の畏友前川佐美雄君と天理時報社の上田理太郎氏のお蔭である。いままでも時に古寺の感想を発表したこともあつたが、本にまとめることは考へてゐなかつた。偶々前川君を介して上田氏を知りあひ、その懇切な慫慂によつて、昨年の初秋から冬へかけて漸くまとめあげることが出来たのである。はじめの予定では、室生寺当麻寺慈光院など平安朝以後の諸寺もふくめるつもりだつたが、そこまでは及ばず、自分の屡々訪れた、また誰にも親しみふかい著名な寺を、飛鳥白鳳天平まで順を追ふて七寺だけ選び、六年間の思ひ出を参照しながらこゝにまとめあげた次第である。「飛鳥の祈り」「白鳳の光」「天平の花華」の三論文が全篇の骨子となつてゐる。
 前川君には随分御厄介になつた。通りすがりの旅人ならばつい見逃すであらう隠れた風景をみせて貰つたり、普通では拝観をゆるされぬ処まで拝観することが出来たのはすべて前川君の尽力による。東大寺の上司海雲氏にもおめにかゝり、戒壇院や大仏の蓮弁を親しくみせて頂いたし、またこの本のためにと、東大寺史を贈つて頂いた御厚情も忘れられない。
 上田氏も私の我儘な申し出を心よくひきうけて下さつて有難かつた。本書に挿入した写真は、すべて私の希望した場所から、希望した角度に従つて撮影したものであるが、写真に全く無智な私が文章や空想で示すところを、忠実に果してくれたのは上田氏と撮影者の大鍬四郎氏である。写真機を抱へて幾たびも古寺を巡り、再三吟味苦心されたさうである。氏の見事な撮影を載せえたのはこの本の誇りである。なほ装幀は私の若い友人である工芸家の上村占魚君にお願ひした。これも天平雲をといふ私の註文を心よくひきうけて、幾たびも雲を写生し、雲のやうな炎のやうな美しい図案が出来あがつた。諸氏に心から感謝した。
   昭和十八年早春
               著者